福島・京都・神戸「八重の桜」ゆかりの地完全ガイド

HOME » 八重の桜ゆかりの地紀行「新島襄」編 » 新島夫妻の暮らしをたどる京都の旅

新島夫妻の暮らしをたどる京都の旅

新島襄・八重の夫妻が暮らした、京都の「八重の桜」ゆかりの地を巡ります。

新島襄と八重が過ごした八重の桜ゆかりの地・京都

 新島旧邸
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
新島旧邸は、1878年に竣工した新島襄と八重の私邸。設計・施工者は明確になっていませんが、同志社の教員で宣教師でもあったW.テイラーの助言をもとに、新島襄自らが設計したとも言われています。

建物は、木造2階建ての和洋折衷。外観は19世紀末~20世紀初頭にアメリカで流行したコロニアルスタイル、建築の基本は和風寄棟住宅となっています。

床が高いのが特徴で、窓には鎧戸、三方にベランダを巡らせるなどモダンなイメージ。1985年(昭和60年)に京都市指定有形文化財に指定されたこの建物は、1992年の保存修理工事の修了後、一般にも公開されています。

 山本覚馬旧邸跡
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山本覚馬旧邸跡は、河原町御池交差点南側に位置します。京都府顧問だった頃に居を構えていた場所であり、当時の京都府権大参事・槙村正直邸の隣であったと伝わっています。

八重の兄である山本覚馬は、会津藩士であり砲術家。鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩藩によって捕えられ幽閉されましたが、その間に提出した「管見」が認められ、京都府顧問に抜擢されました。

主に殖産興業に貢献し、新島襄の同志社英学校の開業にも協力しました。

 三嶋亭
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三嶋亭は、1873年(明治6)に創業した京都の老舗すき焼き店。明治・大正・昭和・平成と、130余年にわたり伝統の味を守り続けています。

寺町通三条下がるに店はあり、新島襄と八重も三嶋亭の味に舌鼓を打ったと伝わっています。兄・山本覚馬と槙村の住居もすぐ側にあったので、皆が一堂に会することもあったかもしれませんね。

新島襄・八重の結婚式と結婚生活

新島襄と八重が初めて出会ったのは、1875年(明治9)。それからわずか半年後の1876年1月3日、宣教師デイヴィスの立会いのもと、二人は京都でキリスト教式(プロテスタント)の結婚式を挙げます。

キリスト教式の結婚式を挙げた日本人は、新島襄と八重が初めてとなります。このとき、襄は数えで33歳、八重は30歳でした。

二人の結婚式はとても簡素なもので、費用は人力車の代金10銭のみと伝えられています。八重のドレスも手づくり、参列者に振る舞ったものも八重手づくりのクッキーとお茶だったそうです。

結婚式後は二人で同じ人力車に乗りましたが、男女が同じ人力車に乗ることなどあり得なかった時代。人々は、夫妻の様子をとても驚いて見つめていたようです。

襄は八重のことを「八重さん」と呼び、八重は襄を「ジョー」と呼び捨てにしていました。ふたりは男女平等のクリスチャンのファミリーを作ろうとしていたようですが、これらの行動は、男尊女卑の思想の強い当時の日本には異質に映ったのでしょう。

周囲からは冷たい目で見られ、八重は「悪妻」「烈婦」などと批判されましたが、気にも留めなかったようです。

 
5つのキーワードでたどる「八重の桜」ゆかりの地紀行