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八重が眠る共同墓地で晩年をしのぶ

「八重の桜」ゆかりの地として、八重と夫・襄が眠る同志社共同墓地を紹介しています。襄の死後、看護婦として日清・日露戦争に従軍し、晩年は茶道に没頭した八重の後半生もまとめました。

八重の桜ゆかりの地・新島八重と同志社共同墓地

京都市左京区にある若王子山墓地には同志社墓地があり、ここに新島襄と八重、兄である山本覚馬とその家族、その他同志社大学に携わった宣教師たちの墓碑があります。ここでは、夫である襄の死後、どのように八重が生きたのかを詳しく解説していきます。

 襄の死~日清・日露戦争
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1890年(明治23)、新島襄が亡き後、八重は日本赤十字社の正会員として社会奉仕に注力。1894年(明治27)の日清戦争では、広島の陸軍予備病院で篤志看護婦として4ヵ月間従軍しました。

さらに1904年(明治37)の日露戦争では、大阪の予備病院にて2ヵ月間従軍しています。日清戦争の際、八重は40人の看護婦を取り締まる役目を担い、ケガ人の介護だけでなく、看護婦の地位向上にも努めたそうです。

その功績が認められ、日清戦争の際には勲七等宝冠章を、日露戦争の際には勲六等宝冠章を授与されています。

さらに、1928年(昭和3)には、昭和天皇より銀杯を下賜され、八重は「数ならぬ身もながらへて大君の恵みの露にかかるうれしさ」と喜びを表しています。

 会津と皇室の和解
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また、八重が銀杯を下賜された同年には、会津藩旧藩主・松平容保の孫である勢津子姫と秩父宮殿下が成婚。この縁組により、会津と皇室は60年ぶりに和解、朝敵・逆賊の汚名を返上することができたのです。

八重はこのときの喜びを、「いくとせか峰にかかれるむら雲の晴れてうれしき光をぞ見る」と詠じています。むら雲が晴れたのは八重だけではありません、旧会津藩士すべての悲願でもあったことでしょう。

 茶道に没頭した晩年
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1894年(明治27)、八重は裏千家十三代家元・円能斎に茶道を習い、その活動に力を入れ始めます。

翌年には「茶通箱」(初級)の免許を、その後は茶名「新島宗竹」を授かり、京都に女性向けの茶道教室を開塾。裏千家流を広める女流茶道家として、積極的に活動を行っていました。

そんな八重は、1932年(昭和7)6月14日、急性胆嚢炎で永眠(享年86歳)。江戸・明治・大正・昭和と激しく移り変わった時代を、力強く生き抜いた人生でした。

八重の葬儀は、同志社女子大学・今出川キャンパスに完成したばかりの栄光館で盛大に行なわれ、若王子山墓地内・同志社共同墓地の新島襄の墓の横に眠ることになります。

 
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