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会津戦争の古戦場を歩く

大河ドラマ「八重の桜」でも山場の一つとなる、会津戦争ゆかりの地を紹介します。

八重の桜の重要エピソード・会津戦争ゆかりの地

 旧滝沢本陣
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会津若松市にある旧滝沢本陣(きゅうたきざわほんじん)は、会津藩の本陣跡。御入御門、御座の間、御次の間などが当時のまま保存されており、国の重要文化財に指定されています。

参勤交代や領内巡視の際に藩主が休憩する場所でしたが、戊辰戦争の際は本陣となり、白虎隊もここで命を受けたとのこと。

現存する建物のあちこちには刀傷や弾痕が残り、当時の戦いのすさまじさを伝えています。

 鶴ヶ城
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八重の桜ゆかりの地・鶴ヶ城会津若松城とも呼ばれる鶴ヶ城は、戊辰戦争の籠城戦で1ヵ月の間不落であった名城です。

このとき会津兵は、藩主・松平容保を中心に籠城を続け、昼夜砲撃を受け続けました。周囲は完全に新政府軍に包囲されており、多数の犠牲者を出しました。降伏した際、鶴ヶ城は見るも無残なほどに破壊されていたとのことです。

明治7年に、石垣を残して取り壊されましたが、明治40年に再建。天守閣に続く建物である干飯櫓・南走長屋も、江戸時代の工法・技術を用いて平成13年に復元されています。

 飯盛山
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会津若松市の中心からやや東側に位置する飯盛山(いいもりやま)。戊辰戦争では、戸ノ口原の戦いで敗走した白虎隊・士中二番隊が撤退した場所となっています。

ここから鶴ヶ城を見た隊士たちは、城が炎上していると錯覚し、全員が自刃したという悲劇の場所でもあります(飯沼貞吉のみ生存)。

飯盛山には白虎隊十九士の墓があり、年間200万人もの観光客が若き隊士たちの死を悼んでいます。

 中野竹子殉節碑
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中野竹子は、戊辰戦争の際に娘子隊と呼ばれる女性だけの隊を結成し、その隊長を務めた女性です。殉節碑は、昭和13年に会津若松市神指町黒川にある湯川橋に建てられました。

薙刀の名手であった竹子は涙橋の戦いでも勇敢に戦いますが、新政府軍の銃弾を額に受けて負傷、妹である優子の介錯によって戦死します。

殉節碑には、出陣の前に薙刀に結びつけていた「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」という辞世の句が刻まれています。

鶴ヶ城の籠城戦と八重の奮戦

鶴ヶ城の籠城戦の際、八重は戦死した弟・三郎の形身となる装束を身にまとい、スペンサー銃を手に勇敢に戦いました。

新政府軍には、当時最新とされた四斤砲(よんきんほう)があり、砲撃は容赦ないものでしたが、八重はこの不発弾を分解して構造を解析。藩主・松平容保に説明を行ったと言われています。

援軍も見込めないまま籠城を続ける会津藩でしたが、周囲は数万の新政府軍に埋め尽くされた状態。城内では降伏か討ち死にかの議論が繰り広げられましたが、これ以上の犠牲を出すことはできないと、松平容保は降伏を決意。こうして、八重を含め、会津の人々の厳しい籠城戦は終了したのです。

 
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