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八重の生家・山本家を訪ねて

新島八重・山本覚馬生誕の地をはじめとした、大河ドラマ「八重の桜」ゆかりの地を紹介しています。

「八重の桜」の舞台・会津に見る新島八重・山本覚馬ゆかりの地

 新島八重・山本覚馬生誕の地
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会津若松市米代2丁目にある、新島八重・山本覚馬生誕の地。二人の生家である山本家があった付近には、石碑と案内板が立っており、こちらは1989年5月30日に同志社によって建立されました。実際の生家は、石碑から西へ50メートルほどの位置にあったと言われています。

石碑には「山本覚馬・新島八重生誕地」「明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残る月かげ」という和歌が刻まれています。この和歌は、戊辰戦争で鶴ヶ城に籠城して戦った八重が詠んだもの。降伏して開城する前夜、三の丸城壁にかんざしで刻んだものと言われています。

 会津藩校日新館
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会津藩校日新館は、人材の育成を目的に建設された藩の教育機関。1803年(享和3年)、鶴ヶ城の西側に完成しました。

会津藩士の子弟は10歳になると日新館に入学することになっており、ここで学問や武道に励みました。約8千坪という広大な敷地の中には、武道館・天文台・水練水馬池(プール)・開版方(印刷所)・文庫(図書館)など、さまざまな施設を完備。教科書は、論語・孝経・小学などの中国の古典を用いていました。

日新館は、八重の兄である山本覚馬や白虎隊の少年達など、優秀な人材を多数輩出することに貢献しています。現在の日新館は当時の施設を忠実に再現しており、弓道や座禅などの武士道体験などを楽しめるようになっています。

 大龍寺
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会津若松市慶山にある臨済宗妙心寺派の禅寺・大龍寺は、八重の先祖が眠る山本家の菩提寺。戊辰戦争の際は西軍(新政府軍)の野戦病院として利用されていたため、戦火を免れました。

八重は、自身が亡くなる1年前に大龍寺を訪れ、バラバラになっていた家族の遺骨をまとめて山本家之墓を建立。墓標に「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と刻んだと言われています。

ちなみに、この墓に眠っているのは弟・三郎、高祖父を含む6人。父である山本権八の墓は光明寺、八重と覚馬の墓は京都の若王子墓地にあります。

八重と覚馬の生い立ち

八重は1845年(弘化2)11月3日、父・山本権八と母・佐久の三女として、鶴ヶ城土手内米代四之町(現在の会津若松市)に生を受けました。

父・権八は会津藩の砲術指南を勤めており、幼少期より裁縫などより砲術に興味を示していた八重。とくに、兄である覚馬から砲術・銃術を学んでいました。

1868年(慶応4)鳥羽・伏見の戦いで会津藩は敗北し、薩摩・長州藩を中心とした新政府軍から攻撃され戊辰戦争が勃発。戦火は会津城下や鶴ヶ城にも拡大し、籠城戦に突入します。

このとき八重は断髪し、戦死した弟・三郎の装束を身にまとい、七連発のスペンサー銃を持って篭城戦に参加。圧倒的な戦力を持つ新政府軍を相手に、最後まで諦めることなく勇ましく戦いました。

兄である覚馬は、鳥羽・伏見の戦いの際に薩摩藩に捕らわれ幽閉されていましたが、その間に筆記した「管見」が認められ、京都府顧問として府政に貢献。

一度は死んだと知らされていた兄が生きていると知り、八重も1871年に京都へ移住。ここで八重は英語を学習し、西洋の衣裳を着こなし、明治の新しい女性として活躍していくことになります。

そして、夫となる新島襄と出会うこととなるのです。

 
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